2011年01月03日(月)

「そのために私は高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」Uコリント12:7


あなたは日々に祈りをささげるだろう。神は私たちに「祈れ」と言っておられる。「求めよ、そうすれば与えられる」は神の約束だ。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからだ」と神は言われる。願えと言われ、求めを喜ばれる。それゆえ祈るが、幾ら祈っても叶えられないと感じるものがあるだろ
うか。

祈りが全く答えられない。神に、聞かれているのだろうか?神はどんな小さな祈りも聞いておられる。しかし、答えられない祈りがある。私たちは答えられない祈りによって、御心を知れる。パウロは肉体に与えられたとげについて、熱心に真剣に除かれるように祈った。

これが無ければもっと神のための働きがスムーズに出来るのに、このゆえに妨げられると。しかし、神の答えは「ノー」であった。そしてその肉体のとげは、神から与えられたものであり、パウロが高慢にならないためという理由があった。

主もゲッセマネの園で祈られた。しかし、主の願いは「ノー」であった。祈りの中で、ご自分の祈りを変更し、御父の御心に自らをそわせて行かれた。叶えられない祈りがある。しかし、祈りを通して、自分の思い、願いとは異なる神の御心がある事を知る。それは何と感謝な事だろう。

そして御心に従う事ができる。叶えられない祈りを通して、神ご自身を知り、そのお心を知れる。もし祈りに感触が無ければ、あなたの祈りを変更する必要があるかも知れない。
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何のために祈りは叶えられないのか。叶えられない祈りを今一度、神様の答えと受け取り、御心を尋ねて行こう。自分の祈りが変えられ「御心がなりますように」と神様からの「ノー」を受け取って行きたい。