2012年09月18日(火)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩編51:17


エデンの園で、アダムとエバは神が食べてはならないと命じられた、善悪の知識の木から取って食べた。罪を犯した。その結果、主の御声を聞いて身を隠した。主のほうから声をかけられ「あなたは・・食べたのか」と問われた。主は、悔い改めの機会を下さった。その時に、「はい、食べました。ごめんなさい」と言うことができた。

しかし、罪を認めず、アダムは「この女が、くれたので食べた」とエバのせいにし、更には「あなたが私のそばに置かれたこの女」と、エバを置いた主が悪いと。エバは「蛇が私を惑わした」と蛇に責任転嫁した。何ということだと思うが、私たちはどうだろう。

例えば、床に置かれていた、ガラスのコップを蹴飛ばしてしまった。そんな時、こんな所に置く者が悪いと、些細な事でも、責任転嫁してしまう。自分を正当化したい。誰かが置いたかも知れないが、現にけったのは自分である事を、まず認める必要がある。

自分がした事と認める時、次に進める。そして、何より心はまっすぐであり、平安だ。何にも代えられない。様々な問題が起きるが、環境のせい、人のせいにしているなら、問題は全く解決しない。自分の問題としてとらえ、向き合う事が解決への道だ。悔い改める必要があるなら、悔い改めて行く時に、主の赦しにあずかり、主の恵みを実感して行く。一歩一歩成長して行く。
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この世では失敗や弱さは否認し、無かったことにして次に進んで行くのかもしれないが、私達は真逆の道を行く。罪や弱さ、不信仰をしっかり、そのような者ですと神の前に認め、悔い改めて、悔い改めて、自分自身が変えられて行く道を歩む。