2013年07月04日(木)

「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜこのうえ先生を煩わすことがありましょう。イエスは、その話のことばをそばで聞いて・・『恐れないで、ただ信じていなさい』」マルコ5:35 



ヤイロは、娘が危篤であり、必死な思いで、主のもとへ来てひれ伏し願った。どうか家に来て、娘の上に手を置いて癒して頂きたいと。主は、一緒に出かけて下さった。ヤイロは一刻も早く、主をお連れしたい。娘が死んでしまう。気が気でない。しかし、一刻の猶予もない、そんな時に長血の女性が現れた。主は配慮をもって対応され、手間取ってしまった。

何でこんな時に、心は焦り、早く、早くお連れしなければ、その時間がどんなに長く感じられただろう。その時に、家から使いの者が来て、娘が亡くなった事を告げた。もう先生を煩わすことはない、もう手遅れだと。ヤイロはどうだったろう。茫然自失。心が停止してしまったのではないか。何がどうなったのか、パニックになり、考える事もできなかったのでは。

その瞬間、主がヤイロに言葉をかけられた。「恐れないで、ただ信じていなさい」。別訳では、「イエスは、その話している言葉を聞き流して」とある。主は、使いの者の言葉を聞き流された。私たちも、聞き流す必要のある言葉がある。様々な問題に対して「もうだめだ」「手遅れだ」「不可能だ」、ネガティブな言葉、不信仰な言葉は聞き流し、無視しなければならない。状況でなく、人の言葉でなく、主の言葉をしっかり受け入れ、握り、信じて行く時、御言葉の通りに成し遂げられる。
------------
「駄目だ、できない」の思考が、主にあっては「必ずできる」に変わらないだろうか。私たちを力無しにしてしまう言葉を信じるか、「恐れないでただ信じていなさい」との主を信じるか。信仰に立ちもう一度、状況を見てみよう。