2013年10月03日(木)

「立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられる父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」マルコ11:25 

      
信じて祈る時、素晴らしい約束を与えて下さっている。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります」と。しかし、次に言葉が続いていて、誰かに恨み事があれば、赦してやりなさいと、赦す事が強調されている。赦さない心は、祈りを妨げる。神があなたを完全に赦して下さったのだから、恨み事のある相手を赦しなさい、と。

私たちは、しょっ中、失敗する者だ。しかし神は豊かに赦し続けて下さる。罪を犯さないのではなく、罪は犯すが、赦されて〃、赦され続けて生きている。それゆえ、私たちも赦すべきだと。まず恨み事や、憎しみや赦さない心があると、祈れなくなってしまう。心にとがめがあり、主とへだたりができてしまう。すると、確信もった祈りができない。

ある人が、非常に切実な必要があり、神の御前に出て祈っていた。しかし、祈り続けるが与えられない。祈りの中で、ある人の仕打ちに、恨みと敵意、苦々しい思いを持ち続けている事を示された。これが祈りの妨げになっている事がわかり、その場で悔い改めて、その相手を赦した。その後、見事に祈りの答えが来た。

赦さない心は、祈りをシャットアウトしてしまう。祈りの答えを受け取るために、自らに密かな恨み、赦さない心がないかどうか、御霊に探って頂こう。妨げが取り除かれる時、心は平安になり、「自分の心に責められなければ、大胆に御前に出ることができ、求めるものは何でも神からいただくことができる」。
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神には常に赦され「求めるものはすでに受けたと信じなさい」と言っていただきながら、自分は人を恨み続けたままとは、なんと自分勝手でおかしな話だろうか。そんな至らない者をなお赦して下さろうとされる神を仰ごう。