2015年05月04日(月)

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」Tコリント6:20



主は、十字架の死の前に「子の栄光を現して下さい」と祈られた。
この上ない残酷で凄惨な死に、栄光が現れるようにと。十字架は極
悪人を処刑するものだ。忌み嫌われ、呪いの象徴だ。無惨、弱さ、
華々しい栄光の対極にあるように見える。「どこが栄光?」と思う
が、しかし、主の栄光はそこに現わされると。

十字架により罪と死の力が破られ、罪の赦しと永遠の命が与えられ
た。これほどまでに愛されている事、赦され、今日生かされている
を覚え、一人一人に与えられた御心を行なって行くところに、神の
栄光が現されて行く。「あなたがわたしに行なわせるためにお与え
になったわざを、わたしは成し遂げて・・栄光を現わしました」の
通りに。

私たちは大成功が栄光だと思いやすい。受験は合格、畑は豊作、商
売繁盛、子供は良い子。しかし、不合格、不作、リストラ、子供の
非行・・その弱さの中で、主に委ねて、従って行く時に、主は素晴
らしい栄光を現わして下さる。そして、もし失敗したとしても、そ
れで終わるのではない。主の十字架は罪の赦しのためだ。

姦淫と殺人罪は、栄光の正反対だ。しかし、王でありながら、真摯
に悔い改めたダビデは、素晴らしい栄光のために用いられた。ヘブ
ル11章の信仰の人に名を連ね、ダビデの詩編にどんなに私達は慰め、
癒され、引き上げらるだろう。どんな状況であっても、そこで自分
自身を明け渡して、御霊の導きに従おう。その時、主の栄光を現わ
して下さる。
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どれの程の愛で愛されているのだろうか。失敗には悔い改めが備え
られ、ありのままで主の元に行くことができる。順境にも逆境にも
いつも主が共におられる。主にお委ねし喜んでいたい。