2015年08月04日(火) 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」マタイ26:38
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」マタイ26:38
ペテロは、弟子たち皆が主を裏切っても自分だけは違う。自分は決 して裏切らないと言い切った。「私は」どこまでもついて行く。命 をかけても、「私は」あなたを知らないなどと言わない。「私は」 何があっても大丈夫。ペテロは自分の弱さを知らなかった。自分に 自信があり、自信満々であった。「自分は」他の弟子たちとは違う、 そこに高慢が潜んでいた。 「シモン眠っているのか、まだ眠っているのか」との主の言葉の通 り、ゲッセマネで、主が祈りの苦闘中、眠り込んでいた。主はご自 分の姿を、心の内を弟子たちの前にさらけ出され「わたしは悲しみ のあまり死ぬほどです。ここを離れないで目をさましていなさい」 と、弟子たちが一緒に祈ることを願われた。 ご自分の弱さを認められ、御父に拠り頼み、祈りに持って行かれた。 弱さを認めた、祈りの苦闘の中で勝利され、「立ちなさい。さあ行 くのです」と、十字架に向かって真っ直ぐに歩み出された。主とペ テロの違いは、ペテロは自分の弱さを知らなかった。自覚がないた め、祈りが無かった。主は弱さを自覚され、切に祈られた。 眠気が問題なのでなく、「自らの弱さ」を知らない事が致命傷だっ た。弱さを認めなければ、祈りの必要性が無い。自分の弱さは見た くない、認めたくない。しかし、自らの弱さを認めて、初めて祈り、 主に頼ることができる。 ------------- 自分の弱さを幾つ知っているだろう。あらゆる場面で主に祈る時に 力を得る。無防備で自信過剰な者だろうか。そうであれば祈れない ことを認めてみよう。