2016年03月04日(金)

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17  



                   
誰しも、目の前で、進路が閉ざされた経験があるだろう。前進しよ
うとする時、進みたい、願っている道が、目の前で閉ざされる。入
学試験、就職試験の不合格をはじめ、様々な事で経験する。又、さ
あ、これから仕事に就くという時に、病に倒れたりする。「なぜ?
どうして?」悲しく辛い経験だ。

パウロもアジア州で、さあ、宣教しようとしたところ、御霊に止め
られた。ビテニヤの方へ行こうとしたが、それも阻止された。御霊
の導きは、時に私たちには理解できない。しかし、それが理解でき
なくても、又、どのようであっても、そこに神を認め、神の御心を
信じて行くこと、それが信仰によって生きるということだ。

結果的に、パウロはマケドニヤに渡るよう導かれた。そこには、ヨ
ーロッパ宣教という大きな御心があった。進路を止められた事は、
導きを失った事ではない。迷子になったように感じ戸惑ってしまう
が、御心が別にあるとの導きだ。ある人はこれから医師として立と
うという時に、病が発覚した。

数年の入院生活に非常に落胆した。が、完治して実践の場に出た時
に、患者の人々の気持ちがわかるという、幸いな益を受けた。病を
感謝できた。ある人は、自分が思う最善の進路が閉ざされた。しか
し、結果的に、別の道へ、自分の最善でなく、主の最善の道に導か
れた。道が閉ざされたなら、導きを失ったのではない。御心が別に
ある。祈って、主を待とう。
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計画通りに行かなくても、これも主の導きと思えることは感謝だ。
信仰がなければ、ただ落ち込むだけだが、更に最善が備えられてい
る、これはその途上だと明日を信じて待てる。