2016年04月03日(日) 「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、 互いに赦し合いなさい」コロサイ3:13
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、 互いに赦し合いなさい」コロサイ3:13
人を赦す事を拒む心には、恨み、苦々しさ、怒りがある。人を赦さ ない事は、自分自身が神の赦しを本当には経験していない、という ことになる。主が私の罪を何もかも赦して下さるという、驚くべき あわれみを思うと、 私たちが人を赦すのは当然だと思える。 人には言えないような、様々なひどい醜い罪が赦された事を思う時、 他の人の罪を赦さずにはおれないのではないだろうか。しかし現実 には、これほどのあわれみを受けているのに、なかなか人の罪を赦 すことができない。執念深く、人のした悪を数え、恨み続けている。 だが、人を赦すことは主からの命令だ。なぜなら、人を恨み、憎み、 赦さない事によって傷つくのは相手でなく、自分自身だ自分自身を 自分が傷つけている事になる。人を憎み、赦せない心ほど苦しいも のはない。憎む相手がいると、常に心に重い鉛を抱える事になる。 楽しい時にも、心の鉛は影を落とす。ふっと思う時に心は沈み暗く なる。人を憎むなら、自分から牢獄に入る事になる。いつも縛られ、 苦しく、がんじがらめだ。主は私たちを牢獄から解放したい。自由 にしたいと思っておられる。主に助けを求めよう。人にできない事 が主にはできる。 主に不可能は一つもないからだ。「赦したくありません」と正直な 気持ちを主に祈って行こう。そして助けを求めよう。祈りから始め よう。そこに御霊が働かれ、必ず助けられる。心の重い鉛が消えて 自由にされる。 ・・・・・・・・・・ 主の血潮ゆえに、罪が帳消しにされる。そして、二度と思い出さな いと言われる。何という驚くべき、測り知れないあわれみだろう。 まず自らの緋のような罪が真っ白にされている事実を、受け取ろう。 主の愛にとどまろう。主に満たされる時、赦して行ける。