2016年05月04日(水)

「また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった」マタイ13:7




種蒔きのたとえで、種が道ばたと岩地と、いばらの中と良い地に落
ちた。良い地に落ちた種だけが豊かに実を結んだ。いばらの中に落
ちた種は、いばらが伸びて、ふさいでしまい、実を結ぶ事がなかっ
た。つまり、「この世の心遣い」と「富の惑わし」が御言葉をふさ
いでしまうと。

心が満たされない時、「この世」を握り締め、この世にしがみつく。
人に良く見られたい、認められたい、評価されたい、良い人であろ
うとして、人にしがみつく。又、満たされないので、心を満たそう
と富を握りしめる。富が幸せを与え、夢を実現させてくれ、生活を
保障してくれると思ってしまう。心の満たしを求めて、ますます目
に見えるものに固執して、放さない。そうしていて気づかない。

自分にとっては命なので、手放す事などとても出来ない。しかし、
神はあわれんで下さる。あわれみの主だ。神は見捨てられずに、導
かれる。試練を与えられる。愛する者を懲らしめられる。懲らしめ
は神の愛だ。辛く苦しい状況の中で、初めて真剣に主を求め、御心
を求め、自らの状態も探り考える。

自分は、神以外の何に固執し、握り締めて放さないのか、普段はほ
とんど気づかずにいる。試練によって、主に真に向き合い、自分の
姿に気づかされ、明け渡して行けるようにされる。懲らしめは、神
の方へ心を向ける愛だとわかる。
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痛い、苦しい中で主に訊ね求める時は大切だ。自分の中の発芽を妨
げるいばらを認めることで、日々主に頼って歩むしかないとわかる。
主は新たな御言葉で励ましてくださる。耕された者へと進もう。