2016年08月04日(木)

「それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを 知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」Tヨハネ3 :19 


対人関係から逃げる事は出来ないが、どうしても好きになれない相
手がいるだろうか。批判の矢を向けて来る人、いつも自慢ばかりす
る人、愚痴ばかりの人、悪口の多い人、高慢な人・・。好きになるの
は到底無理と思ってしまう。しかし、聖書は一言も相手を好きにな
れとは言っていない。「好きになれ」でなく「愛せよ」と言ってい
る。

好きにならなくとも、愛することはできる。「好き」は感情であり、
「愛する」は意志だ。聖書の中の「愛」はすべて「意志の愛」だ。
感情の愛ではない。愛するというと感情を連想するが、意志で愛す
る事だ。私たちの感情はコントロール不可能だ。そのように造られ
ている。しかし、意志はコントロール可能だ。だから愛することが
できる。

愛するとは、日常生活で、困っている兄弟がいるなら、自分に出来
る事をする事、持っているものを分け与えることだ。「世の富を持
ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすよ
うな者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」。自分に出
来ることをすればよい。出来る事しかできない。できる事をして平
安でおれる。

目の前の困っている人に、あわれみの心を閉ざさない事、自分に出
来ることをする事、それなら出来るのではないだろうか。祈り、御
霊の示しがあれば、実行しよう。神はとなり人を愛したと見て下さ
る。そして、神の御前に心を安らかにされる。平安に守られる。

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示された事を、実際に意志をもって行なってゆく時、心が平安にさ
れる。主からの平安だ。そして真理に属するものであることを知れ
る。それは何と嬉しい事だろう。何にも代えられない喜びだ。示し
に従えるよう祈ろう。