2016年11月03日(木)

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」詩篇32:1



ダビデは、全軍を戦いに出して、自らはエルサレムにとどまって
いた。家来たちは命がけで戦っている中、自分は夕暮れに起きる
という怠惰な生活だった。そこに誘惑が来る。ダビデは起きて王
宮の屋上を歩いていると、女が、身体を洗っているのが見えた。
彼女がバテシバだった。

ダビデは姦淫の罪を犯してしまったが、その時にすぐ悔い改めれ
ばよかった。が、彼女は妊娠してしまい、その罪を隠ぺいしよう
と画策する。夫のウリヤを戦場から戻し、家に帰らせようとする
が、忠実なウリヤは家に帰らない。するとダビデはウリヤを最前
線に出して、戦死させるよう計画する。

罪を隠そうとすると、更に罪を重ねて行く。罪を認めることが大切
だ。主のあわれみにより、預言者ナタンが遣わされ、ダビデの罪を
たとえ話を用いて指摘する。指摘された時に、ダビデは初めて自ら
の罪を認めた。その瞬間、ナタンにより、赦しが宣言された。赦し
を受け取るためには、自らの罪をありのまま認める事が必要だ。

主の十字架の血潮により、豊かな赦しが備えられている。日常の中
で、御霊は罪を示される。御言葉により、又、気づきを与え、また
人からの指摘を通して。示された罪を認めよう。肉は認めたくない
し、直視したくなくて逃げたい。しかし罪を悔い改める時、平安が
戻る。赦されることの平安を経験して行ける。この平安は何ものに
も代えられない。
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罪の気付きは感謝だ。罪を赦される十字架が感謝だ。主を知らなけ
れば罪を隠し認めようともしなかっただろう。完全に赦されて、自
己中心から主の元で自由にされる。