2017年05月04日(木)

「悪魔は言った・・『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう』」マタイ4:8



自分は「何のために」信仰しているのだろう。立ち止まって、よく
考えてみる必要がある。もし信仰が、自分の願いを得るための「手
段」なら、自分の欲しいものを手にしたなら、信仰は不要になる。
又、願望を遂げるための手段なら、絶対に欲しいのなら、別に、他
の手段でも良い事になる。

サタンは、「私を礼拝するなら、すべてを与えよう」と言った。あ
なたの欲しいものを何でも上げるよと。そう言われるなら誘惑に乗
ってしまう。目的のものを得たいだけなら、誰がくれようと、構わ
ない事になる。しかし主にとっては、御父を礼拝する事は、手段で
なく「目的」だった。このところが肝心だ。

もし信仰が、より有益な人生とか、より高尚な生活、道徳的生活、
人格者になること、自己実現のための手段だとするなら、神が自分
の思い通りに、期待通りに動いてくれなかったら、遅かれ早かれ必
ず失望する。神の愛を疑い、神から離れ去る。いつか神を捨てる。
そこに自分にとって益が無く、得るものが無いのだから。

しかし、神を神として信じ、神を崇め、何を得ようと得まいと、神
との交わりを目的として歩むなら、何があっても平安と喜びを失う
事はない。状況は関係ない。あなたは「何のために」信仰している
だろう?何かを得るための手段だろうか。それともこの与えられた
人生、あなたの神、主を礼拝して生きるためだろうか。
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目的のものを得るために祈るのではなく、神が聞いてくださってい
るから何でも祈るのであり、委ねまかせている神を神とし賛美しひ
れ伏し拝む。神に愛されていることを知って歩む人生は何と幸いだ
ろう。