2017年07月04日(火) 「それは、私が・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願い・・」ピリピ1:20
「それは、私が・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願い・・」ピリピ1:20
教会を迫害するヘロデ王は、ヤコブを殺害した。それがユダヤ人の 気に入ったのを見て、次にはペテロに手を伸ばした。ペテロを捕ら え、処刑しようとした。しかしペテロは、奇跡が起きて、御使いに よって牢から救い出された。「教会は、彼のために神に熱心に祈り 続けていた」その答えだった。 教会ではヤコブの時も、ペテロの時も同じく熱心に祈った。だがヤ コブは処刑されペテロは救い出された。「なぜ?」と思う。だが、 これはヤコブとペテロそれぞれに対する、神のご計画であり、召し だ。ヤコブは殉教により神の栄光を現わし、ペテロは更に先に福音 宣教の使命が与えられていて、それによって神の栄光を現わす事と なる。 ヘブル11章にも、ある人々は「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、 剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」と。 奇跡に次ぐ奇跡により進軍して行った。同時に別の人々は「牢に入 れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏しく なり、苦しめられ」と殉教して行った。結果的には全く違うが、ど ちらもが「信仰によって」歩んだ。 パウロは「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストがあがめ られること」を求めた。一人〃に備えられた神のご計画が全く違う。 隣の人と比較ができない。比較は何の意味もなさない。いつも主と 自分の関係の中で、自分に与えられた人生、自分に備えられた御心 を全うする事が、最大の喜びの道だ。 ------------ 平凡な毎日のくり返しで、主の栄光より自分のために生きてしまう 日々だ。このような的外れな者に主は証を託されている。私の身に よって・・の御言葉を今朝は自分のものとしたい。