2017年11月03日(金) 「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です』」使徒9:15
「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です』」使徒9:15
アナニヤは、ダマスコに住んでいた。当時、キリスト者は、激しい 迫害を受け、エルサレムから方々に散った。国外にまで及び、散っ て行った。しかし、ユダヤ人たちは徹底的に、目の敵のごとく、執 拗にどこまでもキリスト者を追い回した。 青年サウロは、殺害の意に燃えて、大祭司にダマスコの諸会堂宛 の手紙を書いてもらい、彼らを捕らえて、エルサレムに引いて来よう としていた。その途上で、突然天からの光を受けることになる。一 方、アナニヤは、迫害の迫り来る危機に、真剣に祈っていただろう。 そんな時に「アナニヤよ」との御声を聞いた。主の御声に、どんな に心強かっただろう。しかし、その言葉は、驚くべきものだった。 キリスト者殺害に燃えた、サウロに会いに行くようにと。そして盲 目になっている彼の開眼のために祈れと。アナニヤは余りの驚き に理解できず、彼は迫害者で、と問うて行く。主は、彼は主の選び の器、行けと言われる。 アナニヤはどうだったろう。愛する同胞たちを殺害した相手だ。そ の相手の助けのために祈れと言われる。だが、あのサウロが本当 に回心したのだろうか。自分も殺されるかも知れない。命がけであ ったろう。本当に主の御声なのか?聞き違いではないのか?様々 な思いがよぎったかも知れない。しかしアナニヤは従った。 主はアナニヤをこのために選ばれたのであり、彼が従う事を知っ ておられた。彼は、日頃御声に耳を傾け、主との交わりの中に生 き、従い続けて来た弟子であった。私たちも普段の交わりを大切 にし、「主よ。ここにおります」と答えよう。 ------------ 日ごとの主との交わりの中で、主の導きを受けとる姿勢はどうだろ う。従うにはあまりにも無力だ、駄目駄目と自分の思いで一杯なら 主の御声は聞こえない。主の語りかけに応答しますの態度で御言 葉を聞きたい。