2018年04月03日(火)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、 父が出て来て、いろいろなだめてみた」ルカ15:28 


弟息子が、放蕩ざんまいののあげく、父のもとに帰った。父は嬉し
くて大喜びで迎え、宴会を開いた。その時に、兄息子が畑仕事から
戻った。家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえ、何事かとしもべ
に聞いた。すると、ずっと行方不明であった弟が戻ったので、父が
宴会を開いていると。

生死もわからず、行方不明であった弟が戻ったのだが、兄の反応は
「喜び」ではなく「怒り」だった。激怒で、家に入ろうともせず、
父が出て来てなだめた。その父に、兄息子は溜まった不満を爆発さ
せる。父の言いつけを守り、ひたすら父に仕えて来た。それなのに、
友達と楽しむための子山羊一匹くれたことがない事。

それが、身代を食いつぶした弟には、肥えた子牛をほふっている。
一体どういう事かと。弟のことを「あなたの息子」と冷たく言い、
自分の弟とは認めない。兄弟の関係を拒絶している。父には怒りで、
弟へはさげすみだ。兄は戒めを守る事には、文句のつけようがない
ほど熱心だった。しかしそれは、父に心から喜んで従うのではなく、
義務感で従っているだけだ。父への愛は無い。

弟息子は失われた者だったが、兄息子も同じだった。父とずっと距
離的には一緒にいたが、心は全く離れていた。父の愛がわからない。
父はそんな兄息子に、いつも一緒で、私のものは全部お前のものだ
と言った。兄にも無条件の愛が注がれている。

今、信仰生活に喜びが無く、「ねばならない」の義務感しかなく、
心に不満や怒りがあるなら、そのままの気持ちを御父に告げて祈ろ
う。そうするなら、御父の無条件の愛を今一度経験して行くことに
なる。

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兄は、わくから出る事はできない。でも心は「ねばならない」の不
満と怒りで一杯で、愛はなく、喜びもなかった。物理的距離は父親
と近くにいたが、心は遠く離れていた。もしこの状態なら、あるが
ままの心の内を、そのまま主に吐き出し祈ろう。主に触れて行ける。