2019年02月01日(金) 「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」Tペテロ2:24
「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」Tペテロ2:24
ある人が、職場でどうしても、そりの合わない相手がいた。いつも 嫌な感じに思っていて、相手も同じように思っているだろう。性格 が合わない。話すとギクシャクし、相手にトゲを感じる。時に批判 され、嫌でたまらない。憎しみが湧く。段々、話す事が苦痛になり、 避けたい。 だが、自分はクリスチャン、これでよいとは思えない。平安が無く、 心は重苦しい。その事を祈りに持って行き、そして牧師にも相談し た。すると「じいっと十字架を見てごらん。何度も何度も見てごら ん」と不思議な事を言われた。言われた通りに、じいっと十字架を 見つめた。尚も見つめ続けていると、なぜか涙が出た。 「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすこと をせず」御父にすべて委ねられた主。あの極限の状態の中で、「父 よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわから ないのです」と赦しを執りなされた。何をしているのかわからない 自分のための執り成しだった。自分は一体何をしているのか。十字 架により、主のもとへと戻らされた。 自己中心を悔い改め、しかしこのまま愛し受け入れて下さっている 主に感謝した。その時、相手の欠点しか見ていない自分に気づかさ れた。長所など全く見えない。相手を責め、裁き、トゲを出してい たのは自分だった。私たちの原点、帰る所はいつも十字架だ。解決 は主の十字架にある。ノウハウや処方箋ではない。主の十字架に愛 と力がある。 ----------- クリスチャンだから嫌な人にも愛を持ってと思うが、本当に難しい。 自分自身の醜い罪が主によって赦されたと、そこを認めることから 始めたい。主のうち傷のゆえに癒されたのだと。