2019年11月03日(日)

「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなので す」詩篇73:28



主を知るまでは、皆、心は、この世のものに支配され、又、見える
もので心を満たして来た。神無しで、見えるものしか無かったから
だ。見えるものとは、富、地位、名誉や、目に見える人からのもの
だ。人から評価されたい、認められたい、賞賛されたい、良い人だ
と思われたい。神無しでは、それがすべてなので、一心にその事を
求めて生きて来た。

絶えず人にどう思われるかが不安で、たまらない。嫌われていない
か。それがこの世の心づかいだ。なぜ私たちは、富や人の評価を求
めるのだろう。エデンの園で、罪を選び、神との交わりが閉ざされ
た結果、隠れ、恐れ不安に支配され、何かに頼らずには生きて行け
ない。そのため富にしがみつく。富が人生を保障してくれると錯覚
する。富さえあれば大丈夫、何でも手に入り、夢が叶えられ、幸せ
になれると。

又、神との愛の交わりが断たれた結果、人からの愛を求めるように
なった。人の好意、人の賞賛が欲しい。それにより心を満たそうと
する。つまり心に穴があり虚しいので、人の愛、地位、名誉により
空いた心を埋めようとする。しかし問題の解決はそこには無く、そ
れらを求めれば求めるほど、ますます心は渇き虚しくなる。その虚
しさは神以外に何によっても埋められない。

信仰者にとっても同様で、この世を次々と求めてさまようのは、主
により心が満たされていないからだと。だから空いた心を満たすた
めに放浪する。しかしそこには何も無い。真に心が満たされたいな
ら、主のもとへ行き、主と交わる事だ。その交わりを密に深めて行
くこと。その時、この世のものでない御霊の喜びや平安を経験する。
そこに真の満たしがある。

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サタンの誘惑があり、自分の内に肉があるので、心地良いものを求
めて、方向違いへ向かってしまう。しかしそこに御霊の喜びは無い。
主にとどまること、主との交わりで初めて平安と喜びに満たされる。
しあわせは、神に近くいること、今、主との交わりが必要だろうか。