2022年10月04日(火)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民 イスラエルをエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10



モーセは長年、何も無い荒野で羊を飼っていたが、ある日突然、主
から召しを受ける。「わたしはあなたをパロのもとに遣わす」と。
イスラエルをエジプトから連れ出せと。突如の事に、モーセは「な
ぜ?私が?」と思ったろう。「私はいったい何者なのでしょう。民
をエジプトから連れ出さなければならないとは」と。

何で一介の羊飼いの自分が、そんなとんでも無い大それた事をしな
ければならないのか。モーセはもう80歳であり、又、以前王子であ
った時に、自分こそがと、民を救出しようとして失敗している。こ
の老人に今更何を?今の自分にはもう何の能力も無い。地位も力も
富も人脈もない。

しかし主は、だからこそふさわしいとばかりに、尻込みするモーセ
に、「わたしがが共にいる」と約束され、たたみ込むように説得し
て行かれる。「わたしが共にいる」この事が「しるし」だと。「し
るし」とは、証拠であり、保証だ。これ以上の保証がどこにあろ
う。これが現実であるとは、何と力強い事だろう。

モーセは、民をエジプトから救い出す事、これが主からの使命であ
り、このために生まれて来た。主はモーセを用いられた。私たちも
同様だ。「わたしがあなたを遣わす」の通り、一人一人に主からの
使命が与えられている。

モーセと同じく、私は一体何者と思ってしまうが「わたしが共にい
る」との何よりも力強い保証がある。自分の力や知恵にはいっさい
よらない。遣わされた場で、主により用いていだだこう。
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主が行けと遣わされるなら必ずそこで必要な助けは与えられる。そ
して責任を果たすことができる。主に助けられ用いてもらおう。自
分ではなく主を信じ応えていこう。