2024年05月04日(土)

「今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心 にはおおいがかかっているのです。しかし、人が主に向くなら、 そのおおいは取り除かれるのです。」Uコリント3:15



ある人が証しした。主イエスを信じ、救われたのだが、救われる
や「ねばならない」の律法に囚われてしまった。正しい事をしな
ければならないと、頑張って、頑張って律法を行なった。自分の
力と努力で、信仰生活を送っているので、喜びなどほど遠く、疲
れるばかりだ。しかしこれは良い事、正しい事とばかり、更に自
分の力で突き進んで行く。

しかしそうしていると、自分は頑張っていて、そしてそれは辛い
事なので、頑張っていない人を見ると、腹が立って裁いて行く。
心の内では、人を裁きまくり、喜びも平安も無い。先輩クリスチ
ャンと話すと、それは律法主義で、主の愛によるものでない、聖
書の信仰ではないと言われた。

しかし主の愛が、恵みがわからない。頭では、行ないでなく恵み
による救いが理解できて、理屈ではわかるのだが、恵みと言って
も、行なわなければ、としか思えない。その時は、主の愛や恵み
が頭の知識でしかなく、実際には律法だけで、辛いばかりだった。
とうとう疲れ果て、行き詰まってしまい、ギブアップ状態になっ
た。
その時に、「わたしの恵みはあなたに十分である」の言葉が光の
ように臨んで来た。恵みは、あなたに十分注がれているのだよと、
主が語って下さった。そして、主の力は、私の「弱さのうちに現
れる」のだと。弱くて良い、弱いままで良いのだとわかった瞬間、
力が抜けて、解放され、平安に包まれた。

自分の知識でなく、御霊がわからせて下さった瞬間だった。「主
の御霊のあるところには自由があります」の通りだった。自由な
喜びを下さった。

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肉で行なうと、義務で喜び無く、油の切れた状態で、重いばかり
だ。又、成し遂げても、自分を誇り自分の栄光にし、高ぶってし
まう。主に頼る時、御霊に導かれ、生き生きし、軽くて喜びがあ
る。御霊に導かれることを祈って行こう。