2004年07月04日(日)

「もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります」(ローマ11:6)

働いて得るのは「報酬」だ。会社で仕事をし、給料を貰う。これは時間と労働力を提供して、当然得る報いだ。しかし、働かないのに、時間も労力も提供していないのに、給料を貰うなら、これは「恵み」だ。無代価だ。恵みとは、受ける資格の無い者に無条件に与えられる事だ。それゆえ、神に受け入れてもらおうと、何かをする瞬間に、恵みはもはや恵みで無くなる。神のために自分が何かをする事が律法だ。私達が何一つ持たない虚しい罪人である事を認めて、神のもとに来る時に、私達を満たそうと勢いよく流れ込んで来る、それが恵みだ。水が低い方へ低い方へ流れるように、恵みは低い所へ流れ込む。自分の内に何も無い事を、神の御前に認める事が、大きな祝福を受ける道。
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自分の力で頑張ってしまう。出来なければ、もっと頑張ろうとする。もう少し頑張ればうまく行くとの、サタンの誘惑であり欺きだ。出来ない自分を認めたくなくて、ますます肉に進む。自分で出来ると思っている、自分の力を捨てたくない自我に行き着く。それを神の前に認める時、恵みが流れ込む。