2007年09月03日(月)

「そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです」ピリピ3:12

ある人の証しだ。主イエスを信じ、
救われたのだが、"ねばならない"
の律法にどんどん入り込んでしま
い、頑張って、頑張って律法を行
った。自分の力と努力で信仰生活
をしているので、しんどくなって
来る。疲れて来るが、しかし、こ
れは正しい事とばかり、更に自分
の頑張りで進んで行く。辛くてし
んどい中、自分は頑張って、しん
どいので、頑張っていない人を見
ると、必ず裁いてしまう。心の内
では人を裁きまくり、喜びも平安
も無い。先輩クリスチャンに、そ
れは律法主義で、神の愛ではない、
聖書の信仰ではないと言われ、し
かし、愛がわからない。頭では、
行ないではない恵みによる救いが
理解できて、理屈ではわかるのだ
が、どうしても神の愛がわからな
い。恵みと言っても、ちゃんとし
た行ないをしなければ、としか思
えない。その時は、神の愛が頭の
知識でしかなく、神の愛を「信じ
ようと」しなかった。もうどうや
っても愛がわからず、しんどいば
っかりで、ギブアップ状態になっ
た時に、「わたしの恵みはあなた
に十分」の言葉が光のように臨ん
で来た。恵みは十分注がれてるよ
と、神が言って下さった。そして、
「弱さのうちに現れる」のだよと。
弱くて良いのだと思った瞬間、力
が抜けて、解き放たれ、平安で包
まれた。神が、神の愛を信じさせ
て下さった瞬間だった。神が捕ら
えて下さっていたことに感謝でな
らなかった。私たち一人一人も捕
らえて下さっている。
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不十分なままの自分、従えない自
分、本来の自分をすべて知ってい
て愛して下さっているのだから、
取り繕う必要はない。誰の信仰で
もなく自分が神様と向き合って行
くのだ。