2007年10月04日(木)

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがの霊的な礼拝です」ローマ12:1



あなたも経験するだろうか。神の
御心がなりますようにと祈りつつ
も、自分の思いと自分の願いで一
杯で、建前は神の御心だが、本音
では全くそうではなかったりする。
しかし、反抗する気など全くなく、
一応は御心がなりますようにと思
っているので、思っているだけに
自分でも気づかない。自分では真
剣に祈っているつもりだが、後で
振り返ると、委ねる事の意味もわ
かっておらず、神を信頼もしてい
なかったとわかる。メッセージで、
学びで、神に委ねる事の大切さを、
しょっ中教えられるので、それが
良い事と思い、そうしている「つ
もり」だが、実は自分の思いと自
分の願望をしっかり握って放さな
い。しばしば、自分がそうあれば
いいと思っている事を、実際そう
だと勘違いする。反抗したり、逆
らっていれば、明らかにわかるが、
逆らっているつもりはないので、
わからない。気づかない。何かが
漠然とし、混沌としているのだ。
心に確信と満たしが無い。平安が
無い。それで自分でも、何かが違
うと薄々感じている。この問題点
は、献げていないところにある。
決して自分を献げてはいない。心
の底を御霊で照らされる時に、献
げていない自分を見い出す。この
事を認めることが前進のためのま
ず一歩だ。握っているものがない
か。
-----------------------
知識だけが増えて来るので敬虔で
はないにしてもそれなりの信仰が
あるつもりでいる。本当の自分の
姿は見えているだろうか。信仰は
自分が神様に献げるものだ。みん
なと一緒に・・はありえない。