2008年12月04日(木)

「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16



失望落胆に捕らわれている時、主が見えなくなる。
経験するところだ。エマオ途上の弟子たちは、失望、絶望、落胆の
中にいた。

ローマ帝国をくつがえして、地上に王国を建て、主が支配されるは
ずだったのに、一番残酷で惨めで、無残、辱めの十字架刑で死んで
しまわれた。

自分たちの思いの対極だ。自分たちの希望、期待、喜びが見事に砕
け散ってしまった。失望と空虚しかなかった。

信仰の目がふさがれ、さえぎられ、不信仰に陥っていた。
私たちも思い通りにならない時、自分の思いと全く異なる現実を突
き付けられる時、受け入れる事ができない。
主と自分の間が遮断されてしまう。

目の前の問題だらけの状況が苦しくて、別の職場を求めている時に
「忍耐しなさい、今の場でなければ得られない学びがある」と言わ
れるなら、嬉しくない。

非常なる経済的困窮の中で、「わたしに頼ることを学ばせるため」と
言われても辛いものがある。

目がさえぎられ失望落胆の不信仰にいた弟子たちが、心が燃やされ、
喜びに溢れ、もと来た道を大至急引き返して行った。

どう変えられたのか。主の語られる御言葉に耳を傾けて行った時に、
「信仰」がよみがえった。私たちも現実が全く思い通りでなく厳しく
とも、目に見えるところでなく「信仰によって」歩める。

その信仰は、今の状況がどうであれ、最善をして下さると堅く信じ
させてくれる。
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心をふさぎ 目をさえぎっているものから、目覚めさせてくれるもの
は勝利の御言葉だ。朝ごとに御言葉から出発し、事あるごとに御言葉
に帰ろう。