2010年06月02日(水)

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」マタイ19:26 


金持ちの若い役人は、この世で手にできる、何もかもを持っていた。莫大な財産、名誉、地位、人々からの尊敬、評価、賞賛も得ていた、家庭も持ち、道徳的にも立派な生活をしていたであろう。この世的には、満たされており、何も言う事無かった。しかし、彼の心には何かが欠けていた。心の奥は満たされていない。

この青年は、主イエスに何かを感じ、心の満たしを求めて主のもとへ来た。主は、何が彼の問題であり、妨げであるかを見て、導かれた。彼は、戒めをみな守っていると答えた。隣人を自分自身のように愛していると。そうなら、貧しい人に財産を施すようにと、主は言われた。多くの資産を持っているのだから、貧しい人への愛があるなら、そうしたであろう。

しかし、彼はそうせずに、主のもとを去った。主は、分け与える事の出来ない、自分の真の姿を知らせようとされた。いつも主は、私たちの真の姿を見せられる。様々目の前で起きる出来事はそのためだ。いかに愛が無いか、いかに自分を捨てられないものであるかを。

青年は「悲しんで」去った。そう出来たらいいのだろうが、出来ない。主は彼を慈しんでおられた。自分にも出来ない。しかし、主のもとを去らないで、逃げないで、主に「出来ません。助けて下さい」と求めよう。求めに必ず答え、出来るようにして下さる。
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自分のどこか満たされない思い、出来ないところ、醜い部分をはっきり知る事は大きな祝福だ。主に頼り、主に聞き主がして下さることを信じて従おう。あきらめは、大きな不信仰だ。主を頼りに祈り続けよう。