2010年08月02日(月)

「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」ルカ15:31



3つのたとえ話が出て来て、失われたものが見つかった喜びについて言っている。一匹の羊と一枚の銀貨と放蕩息子だ。そして、この話は、取税人、罪人たちが主の話を聞こうと、近寄った時に、それを「こんな罪人たちと食事を一緒にして」と見下し、不快に思うパリサイ人、律法学者たちに対して語られた。

迷った羊と無くした銀貨と放蕩息子は、取税人や罪人であり、迷っていない羊、無くなっていない銀貨、兄息子がパリサイ人、律法学者だ。失われたものが見つかって大喜びしたと同時に、失われていないものへも同じように愛が注がれている。

パリサイ人、律法学者たちは自分たちは迷っていない、失われていない、放蕩していないと思っている。放蕩三昧の弟が戻って来て、父親が大喜びで宴会している事に、兄は激怒した。自分はしんどい目をして毎日働いているのに、こんな事があってよいものか。

父親が弟だけをひいきしたのでなく、自分も同じく愛されている事がわからない。父親はすねて怒る兄息子を懸命になだめている。父親の限りない愛は、兄息子への言葉でわかる。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」と。

これほどの深い愛で愛されている。しかし、兄息子にはわからない。兄息子の方が、父から心が離れていた。もし、今しんどくて不満タラタラなら、父の心を覚え、父の深い愛に包まれている事に思いを馳せよう。
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自分の罪に敏感になりたい。そして主の十字架で赦されているありがたさ、信仰を与えられている事の感謝をいつも覚えていたい。御父から与えられていないものなど一つもないのだから今日も愛されている喜びを味わいながら歩もう。