2010年12月03日(金)

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」Tヨハネ3:16


主は真の「愛」を表わし、実行して下さった。十字架で、私のためにご自分の命を捨てて下さった。「それによって私たちは愛を知った」。自分を犠牲にする愛、自分中心でなく、他者中心の愛、見返りを求め無い愛、真の愛を知った。

自分の愛はどうだろう。他者を愛したとして、応答が無ければどうだろう。これだけしてやっているのに感謝が無いと、怒りが湧き、恨みとなるだろうか。内心、応報を求め、見返りを求めている。という事は、自分の思いを押しつけ、相手に応答を強いる事だ。

これは相手への愛のつもりだが、実は自己愛だ。相手を愛しているのではなく、自分を愛している。自分を捨てるどころか、自分をどこまでも通して行く、強い自我だ。一見、相手に与え、愛しているように見えるだけに、わからない。

相手は何となく苦痛を感じる。そこに争いが生じ、傷つけ合うが、なぜかといぶかる。しかし、これは親子間、夫婦間、友人間で見られることだ。相手を愛していると言いつつ、実は中心は自分だ。

人間の愛はここ止まりだ。つまり、与えるだけの愛は無いということだ。自我がありどうにもならない。ここから救い出すために、主は十字架で死んで下さった。古い人はそこで一緒に死んだ。

自己愛、自己中心を認め、心底愛が無い事を認める時、御霊の愛が注がれる。自らの状態を認める時、御霊の愛が与えられ、通り良き管として下さる。
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肉の私達の限界を越えた愛を神様が与えて下さる。自己満足ではない他者中心の愛が無いことを認めて、それを豊かに与えて下さる主に求めて行く所からはじめよう。