2011年01月02日(日)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」(Uコリント3:15)

     

ある人が、思春期の頃に、学校でいじめに会っていた。しかし、それを絶対に親
に言いたくないし、知られたくなかった。だから、一言も言わなかった。プライ
ドからだった。いじめられている自分を認める事が余りにも惨めで、絶対に認め
たくない。

それを知られるなど、更に惨めで、耐えられなかった。プライドゆえ、傷ついて
いる事を受け入れる事も惨めで、傷ついていない振りをした。

しかし、主の御前では、そうであってはならない。主はあるがままの私たちを受
け止めて下さる。主の前で突っ張る事も、繕う事も、隠す事も必要がない。すで
に裸のままの、惨めであわれな自分自身をご存じで、受け入れ愛して下さってい
る。

プライドが認めたくない事、深く傷ついている事、惨めである事を認めよう。そ
の時、心が癒され、主の平安が臨む。神は常に真実であられる。しかし、こちら
が正直でなければ、交わりが成り立たない。

あるがままの私を受け入れて下さっているので、繕った私は本当の私ではないか
らだ。神との交わりが何か実感が無いのは、自分が正直ではないゆえではないか。

ダビデは、命の危険が迫る苦悩の中で、恐怖、不安、思い煩い、惨めさも何もか
もを神に告げた。不安でない振りをせず、気持ちを率直に、正直に神にぶつけ、
いつも平安に変えられた。プライドが自分を妨げているだろうか。

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主が見ておられるように見せて下さる、自分の姿を認めた時に、自分が変えられ
て行く。あるがまま正直に主に向かう時、必ず導かれて行く。振り返る時、何か
が動き、打開策が見えて来るのは、いつも自分の姿を認めた時であった。