2011年03月03日(木)

「なぜあなたは、兄弟の目のちりを目につけるが、自分の目の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3


「梁」とは屋根を支えるために、柱と柱の間に渡した横木で、大きな頑丈な丸太
だ。「ちり」は目にも見えないほどの極小のものだ。他人の極小のちりはよく見
えるが、自分の目にある丸太は見えない。なぜあの巨大な丸太が見えないのか不
思議だが、「自分」中心に「自分の」メガネをかけて見ているからだ。全く何も
見えなくなる。つまり、自分は正しいという事だ。

人は、誰も、自分は正しいと思っている。その「自分は正しい」のメガネで判断
するので、見えなくなる。自分に都合の良い善悪の判断になる。アダムとエバが
善悪の知識の木の実を食べた時から、人は神によってでなく、自分で善悪を判断
するようになった。そのため、自分の目が曇り、自分の目に偏見があれば、その
目で見るものはすべて歪んで見える。

悪いのは相手で、自分はどんどん正当化して行く。人には厳しく、自分には甘く
て寛容。善悪の物差しが自分中心だ。恐ろしいのは、それが間違っている事がわ
からない。正しいとしか見えない。あるいは自分はその状態ではないかと吟味し
てみよう。

へりくだるなら、御霊は必ず正しく導いて下さる。御言葉が正しい物差しだ。
御言葉の鏡に、まず自分が照らされ、正されて行く時、その時初めて、兄弟の
ちりを取るために用いられる。
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人の欠点を見るとき、御言葉に照らしてみよう。自己肯定した上での裁きではな
いか、また同じ弱さ思った者として祈る事はできないのか。神様が教えて下さる。