2011年04月02日(土)

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」ヨハネ4:13

人は何を喜びとして、生きているのだろう。自分の心を満たしてくれるものが、
喜びを与えてくれると感じている。心が満ち足りると、幸福感を感じるゆえかも
知れない。それゆえ、自分に満足感を与えてくれるものを、追い求めて行く。

「富」が自分に満足感を与え、幸せを与えてくれると思う人は、富を求め、名誉
や地位が、それなら、そのように求めて行く。「仕事、野心」に満足を求める人
は、仕事一筋の人生を送るだろう。「人からの称賛、評価」なら、そのような歩
みを、「恋愛」によって満たしを求めるなら、そのように時間や労力を使って行
く。

普段は余りに忙しく、流されて気づかないが、人は無意識にも、深い所にある自
らの価値観によって、そのように考え、行動し、結実させて行く。自分が何を喜
びとするかが、どのように生きて行くかにつながっている。

それが無意識に日常での、選択に及んでいる。自分の心の底を、今一度、御霊の
光の中で吟味し、自分は何を喜びとして、生きているのか、照らして頂こう。

その喜びを与えるものが罪でなく、合法的なものだとしても、主以外のものであ
れば、それは偶像となり、心は、主から離れてしまう事になる。
「私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえ
ましょう」主だけが心に真の満足を与えて下さる。

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この世のものは、一瞬の快楽だ。真に心満たすものは無い。自分を喜ばせようと、
色々な事をするが、決して心満たされる事はない。そうではなく、主の喜ばれる
ものを求めて行く時、自分に喜びがあり、満足がある。