2012年03月03日(土) 「イエスは、パンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやら れた・・小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた」ヨハネ6:1
「イエスは、パンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやら れた・・小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた」ヨハネ6:1
1 主は、ご自分では、しようとしている事をご存じの上で、ピリポに「どこからパ ンを買って来ようか」と問われた。ピリポは「200デナリのパンでは足りない」 と答えた。人間的、常識的判断では不可能だ。手元の金額と人々の入り用を算段 すると「足りません」が答えだった。 ところがアンデレは、何か食物を持っている者はいないかと、群衆の中を探し回 った。そして小さな弁当を持っている子供を連れて来た。それは五つのパンと二 匹の魚であった。これは、あるいは、主が何かして下さるのでは、と思ったのか も知れない。「あるいは・・しかし、こんなに大勢では何になろう」主への期待と、 しかし、大勢過ぎて無理か・・の思いが行ったり来たりの状態だった。 だが、主はこの小さな信仰を用いて、この奇跡をされた。ここで学ぶ事ができる。 「足りない」との判断、答えは、自分を軸にした見方、視点に立っている。それ を自分軸でなく、神を軸にした視点に変える事が必要だ。時間が無い、能力不足、 身体的に無理、費用も無い・・だからダメ、それはあくまでも自分視点であって、 主はどうなのか。 そして、5つのパンと2匹の魚、「それが何になりましょう」こんな微少のもの が何になろう、あっても無くても同じ。「無理」、しかし、その僅かなもの、小 さなものを、主に献げるなら、主の奇跡の中に招き入れて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 主に献げる際に、富、時間、労力にせよ、「こんな僅かなものが何になろう。あ っても無くても同じ。何の足しにもならない」との思いが来る。サタンの妨げだ。 その小さなものが、主の手に置かれるなら、奇跡が起きて、何倍にもされ、用い られる。