2012年07月03日(火)

「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」ルカ18:11


パリサイ人と取税人が、祈るために宮に上った。祈りの言葉は、心の内を表わす。パリサイ人は、「立って、心の中でこんな祈りをした」とあり、「心の中で」祈ったので、声には出していない。その内容は、「他の人々のように」と、人と比較し、自分は悪い事はしていないし、律法を守っているというものだった。

しかし、心の中の罪はどうだろう。外側悪い事をしなくとも、妬み、憎しみ、そしり、情欲・・義人はいない。パリサイ人は、人と比較し、優越感に浸り、自分を誇る、自己満足だった。神よ、と言いながら、そこに神はなく独り事だった。

取税人は、人はそこに介在せず、人との比較は無く、ただ関心は「神」であり、神だけを見上げていた。神と自分の関係だけであり、神意識だけだ。取税人は、神の前の自分を意識するので、自らの罪が見えて、打ちひしがれ、罪を認めている。御霊に示されなければ、罪はわからない。御霊による悔い改めが与えられる時には、そこに人は見えない。ただただ神と自分の間で、自分の罪が見えるだけだ。そして、その罪は赦される。無罪放免とされる。

パリサイ人は人と比較して、自分を量る。自分の罪の基準が、人による。だから罪認識が無い。それゆえ悔い改めも無い。このようにサタンは、神から私たちを引き離すために、常に、人との比較に引っ張る。御言葉の光でなく、人との比較で、自分はどうなのかを見せる。目はどこに向いているだろう。主に向き、御言葉の鏡に向く時、御霊の光により自分が照らされる。
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目の前の人を基準に安心したり、焦ったりしてしまう。常に、生涯一人だけで、神の前に立っていることを忘れずにいよう。今日、神は何を私に示して下さるだろうかと、み言葉に丁寧に聞いていこう。