2013年03月03日(日)

「そのために私は、高ぶることがないようにと、肉体に一つのとげ を与えられました」Uコリント12:7

     

パウロは、痛く、苦しいとげが与えられていた。主のために更に働
けるよう、その障害となる、とげが取られるように切に願った。し
かし、この願いの答えは「ノー」であり、取られなかった。とげは
そのまま残された。

このとげが与えられた目的は「高ぶらないように」だった。とげに
より、高ぶることから守られ、主に拠り頼まざるを得ない、へりく
だった歩みが与えられた。主に従う道は、下へ、下へと、へりくだ
りの歩みだ。主はご自分を卑しくし、死にまで従い、十字架の死に
まで従われた。

しかし、肉の性質は、これを避けて、逃れたい。肉は、上へ、上へ
の道を歩みたい。求めるものは成功であり、人からの賞賛であり、
地位、名誉であり、評価され、認められることだ。これがまさに高
ぶりだ。私たちにも、とげが与えられているだろうか。

そのとげにより、高ぶりから守られるなら、何という恵みだろう。
それは病だろうか、様々な困窮か、難しい対人関係か。「この病さ
え無ければ」「こんな生い立ちでさえ無ければ」「この環境でさえ
なければ」「この相手さえいなければ」こんなに苦しむ事は無いの
に・・。

「これを去らせて下さい」と、熱心に願っただろうか。除かれない
代わりに、主の大きな恵み、深いご愛、慈しみを知ることになる。
その弱さの中に恵みは十分であり、このとげが無ければ決して知る
ことは無かった、そして高慢から守られた、と後に必ず言える。

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「こうでさえ無ければ」こんなにしんどくないのに、「これがある
ばかりに」辛い、というものがあるだろうか。そこでこそ、へりく
だらされて、主を知って行ける。そして高慢から守られる。実は大
きな恵みだと知る。