2014年03月02日(日)

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正し いと見えることを行なっていた」士師17:6


エフライムにミカという人がいた。家は裕福であり、家に宮を持ち、
息子を祭司にしていた。ミカの母親が、銀千百枚が盗まれた時、盗
んだ者を呪った。しかし、息子のミカが盗んだ犯人と知るや一転、
息子を祝福する。一貫性が無く、自分の都合次第で、何でもありだ。

ミカが銀を返した時、母親は、その銀を聖別して主に献げると言っ
たが、二百枚を献げただけで、何とその銀で彫像と鋳像を作った。
それがミカの母親だった。ミカもミカで、自分の家に宮を作り、エ
ポデを作り、自分の息子の一人を任命して祭司にしていた。

そこに丁度レビ人が来たので、お金の力で、自分の家の祭司にした。
レビ人も、お金に目がくらみ、ミカの要請を受け入れた。王が無い
時、このように混乱し、偶像礼拝、秩序の乱れ、混沌状態になって
しまう。「自分の目に正しいと見える」=「自分に都合の良い」と
いうことだ。

正義も、義も、神の御心も無く、ただ自分に都合の良いように、判
断もその場〃で、コロコロ変えて行く。そうなるのは、「王がな
い」ためだと。人は、王が無い時に、自分中心、自分次第、自分の
都合、自分勝手に歩んで行く。私たちも、主を自分の王として、心
の王座に来ていただかないなら、同じ状態になってしまう。

イスラエルのように、口では「神」「主」と言いつつも、自分の都
合の良いままに、自分の損得のままに動いて行く。主を心の王座に
お迎えし、自分の都合でなく、主の御声に耳を澄ませ、主に従おう。

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肉は強く、自分の心地良いように、自分の都合の良いように向かっ
て行く。すると平安が無く、主の秩序が乱れて来る。絶えず主を仰
ぎ、主を尋ね求め、主の御声を聞いて、指針に従おう。その時、秩
序をもって導かれ、自分も周囲も平安にされる。