2014年05月02日(金)

「幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は・・あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした」詩編40:4



いけにえが、表面的な、形だけのものに、なってしまう事がある。牛をきちんと献げたのだから良し、OK、すべき事はしたの態度だ。こちらサイドでは、すべき事をしたのだから、祈りが答えられてしかるべき、答えられないのはおかしい、神の方が間違っている、という事にになってしまう。

私達もどうだろう。一つ間違うと、献げるべきものを献げ、するべき事をしたのだから、神は私の願いを聞くべき、願いが聞かれないのは納得が行かない、幾ら献げても聞いてくれない、という態度になってしまう。神との関係が商売上の取引関係だ。しかし、決してそうではない。神とは取引でなく信頼関係だ。神にすべてをお委ねして、神が良いお方であり、最善をして下さる事を、どこまでも信じて行く関係だ。そこには信頼がある。

そして、神が喜ばれるのは、開かれた耳、聞こうとする耳だ。御心を聞いて従おうとする心だ。礼拝に出てはいるが、身体だけ、表向きの形だけ、御言葉を物理的に聞いているが、決して心の耳では聞いていない。頭を素通りしてしまい、又、自分の都合の良い言葉だけ聞いているだろうか。少しでも自我に触れて来ようものなら、即、心を閉じてしまう。

もし、こういう状態なら、耳がふさがっている。神にありのまま、「聞く耳がありません、聞けるよう助けて下さい」と向かおう。神こそが、耳を開いて下さるお方だ。正直に自分の状態を認めて、神に向かう時、必ず答えて下さり、耳を開いて下さる。
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信仰生活が習慣化されてしまい神様との関係、神様の前の自分を見ていないと自己満足で信仰生活が欺かれてしまう。神様の前だけはいつも素直に幼子のような態度で慕い求めていきたい。