2014年08月02日(土)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私 たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32



郷里に帰る、エマオ途上の二人の弟子は、どんな気持ちだったろう。
「暗い顔つき」とあり、とぼとぼと、足取りも重く、失望と落胆に
陥っていた。主に「望みをかけていた」が、だめだった。絶望的な、
うつろな心だったろう。しかし実際は、主の復活が起きていて、罪
も死も勝利に飲み尽くされ、素晴らしい主の栄光が輝いている。何
という喜びだろう。

それが現実なのに、今、それを手に出来るのに、彼らは下を向き、
空虚な暗い中にいた。私達の姿だろうか。よみがえりの主が、私達
のかたわらにおられるというのに、思い煩いと不安と不信仰の中に
いるだろうか。「目がさえぎられていて、イエスだとわからない」、
御言葉を信じない、不信仰によることだった。

主のよみがえりを信じない、その目には、主が見えない。しかし、
主はそんな弟子たちの、そして私達のかたわらにおられる。そのた
め、主は、御言葉を説き明かされた。二人が、その御言葉に真剣に
聞き入った時に、落ち込んだ、重い心が「うちに燃えた」。

失望、落胆や思い煩いにある時、主の語って下さる御言葉に耳を傾
ける事が大切だ。信仰は聞く事から始まり、聞く事は御言葉による。
御言葉を心に受け入れる時、信仰が与えられる。振り返る時どうだ
ろう。何度もダウンしたが、主が語られる御言葉によって、もう一
度引き上げられた。主が見えない時も、主は、あなたのかたわらに
おられるのだから。

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喜びの時も、又、落ち込んだ時も、主がかたわらにおられる事を覚
えよう。今日も、主はかたわらにおられる。御声によって、励まし
慰め、指針を与え、新しい力を与えて下さる。御言葉にじっと耳を
傾けよう、必ず引き上げられる。