2014年11月02日(日) 「あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。 そして、みなあの方のほうへ行きます」ヨハネ3:26
「あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。 そして、みなあの方のほうへ行きます」ヨハネ3:26
主イエスの登場により、人々の注目と人気が、ヨハネから、どんど ん主の方に移って行った。ヨハネの弟子たちは「みなあの方のほう へ行きます」と、自分の師を思うがゆえに、いらだち、妬み、寂し さを感じていた。しかし、ヨハネ自身は全く動じず、自分はキリス トではないとはっきりと言明し、主が主役の花婿で、自分は花婿の 友人であり、花婿の声を聞いて喜びに満たされていると。 ヨハネは、人は何の関係もなく、自分と主との間で、喜びをもって 仕えていた。真に主に仕える者は喜びに満たされる。そこに満足が ある。そして、ヨハネはへりくだっていた。人を見て、人と比較す る事から妬みが生じて来る。妬みは比較から来る。人によって自分 を量るので、優越感と劣等感を行ったり来たりする。 同僚の昇進、学生間の成績や人気、又、ライバルの成功など、心穏 やかでいられない。プライドが傷つくのだ。シーソーのように、人 が上がれば自分が下がる。人の成功を、あたかも自分の失敗のよう に感じてしまう。人が誉められると自分がけなされたように感じる。 それらは心の根にある「高慢」から生じる。 ヨハネはへりくだっていた。人の栄誉も成功も、与えられるものは、 すべては天からであり、そこに神の御手を認めた。そして、神の与 えて下さる自分の分に感謝し、満足した。そこには不平も不満もな い。すべての事柄に、主の主権と支配を認める時、そこにへりくだ りがあり、心に感謝と平安が臨む。 ・・・・・・・・・・・・ 「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできませ ん」。自分自身を主に明け渡して、委ねている時、状況に関係なく、 心は平安だ。この平安は何ものにも代えられない。握りしめている ものに気づかされ、一つ一つ渡して行けるように祈って行きたい。