2015年07月02日(木) 「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したく ない悪を行なっています」ローマ7:19
「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したく ない悪を行なっています」ローマ7:19
自分には悪が宿っているという原理を見い出すと。原理と言うのは 法則の事だ。この世界には、様々な法則があるが、法則とはどんな 時にも、例外なく当てはまるものだ。一つでも例外があれば、法則 にならない。私たちの中に一つの原理があると言う。「善をしたい と願うのに、悪が宿っているという原理」だ。 パウロは新生したので、善をしたい願いがあった。信仰者には、神 に喜ばれ、神の御心を行ないたいという願いがある。新しい命があ るからだ。新しい命は、新しい性質を宿し、神に従いたいと願う。 私たちもパウロと同様、神に喜ばれる事をしたい。 ところが、その願いがあるにかかわらず、そんな願いに反する原理 が存在する。「悪が宿っているという原理」だ。非常に困った事態 だが、これにはどうやっても逆らえない。どんなに物を上に投げた としても、引力の法則が働いていて、物は必ず下に落ちる。これは 法則であってどうにもできない。 自分の力で良い行ないをして、しばらくは持つが、しんどくなり、 辛くなり、必ず落ちて行く。神を喜ばせる事ができない。それを徹 底的に経験したパウロは「私は惨めな人間、誰がこの死のからだか ら救い出してくれるのか」と叫んだ。 「誰が」と言い、自力では不可能だと悟った。落ちて行くばかりだ。 主を仰ぎ、解決を見た。主は私たちを、命の御霊の原理の中に置く 事によって、罪と死の原理も現存するが、そこから解放して下さっ た。自力でなく、御霊に拠り頼んで歩む時に、喜びが来る。 ・・・・・・・・・・・・ 「私の肉の内に善が住んでいない」、善をしたいが実行できない。 救われた後、嫌というほど経験する。心底出来ない事を経験し、ギ ブアップする時、自分の力でなく、御霊によって生きることを知ら される。安堵と平安が心に満ちる。