2018年09月02日(日)

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないな ら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」Tコリント 13:1


信仰者同士で議論になる事があるだろうか。ある青年が、教会の交
わりの中で、他の青年たちと、他愛もない事から、大した事のない
事で激しい議論になった。議論になると、自分は正しいと思ってい
るので、相手を打ち負かしたくなってしまう。強い自我が出て来る。
自分の主張が受け入れられないと、怒りが沸く。心で相手をさばい
てしまうし、険悪な空気になってしまった。

平安なく、帰宅した。帰宅して平安が無いので、聖書を読んでいる
と「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように・・
論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をも
たらすものではない」ことを示された。議論になると平安が失せる。
それは信仰の名のもとに、自分の正しさを主張して行くからだ。そ
こに肉が出る。議論のための議論になる。

それは、「信仰による神の救いのご計画の実現をもたらす」もので
なくなってしまう。議論になると、負けるのが悔しくて、自分の正
しさを主張したい、絶対に負けたくない。相手を打ち負かしたい。
経験あるだろうか。何が目的なのかがわからなくなる。「自分の言
っていることも、強く主張していることについても理解していな
い」の通りだ。ここから徒党や分裂が生じる。

私達の目標は「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て
くる愛」だ。「愛」が目標だ。「この目当てを見失い、わき道にそ
れて無益な議論に走」りがちだ。向上のための、前向きな意見交換
は良い事だが、動機が「愛」であることをしっかり定めていよう。

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肉は自分の思い通りにしたいし、自分は正しいと思っている。自分
の思いを通して行くと、周囲とギクシャクし平安が失せる。そして
その時、「愛」ではない事を示される。目標は「愛」であることを、
いつも御霊により思い起こさせられるよう、祈っていよう。