2020年03月03日(火) 「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう・・人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」ガラテヤ1:10
「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう・・人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」ガラテヤ1:10
日常生活で、どうだろう。何を基準にして、思考、行動しているの だろう。もし人の言動や、態度、自分への評価が基準になっていた なら、アップダウンを繰り返してしまう。人から認められ、評価さ れたなら心地良く、満足で、認められず、賞賛を受けなかったなら、 ひどく落ち込んでしまう。そうであれば、幸、不幸が、他人次第と いう事になる。 人の言葉が気になって仕方が無いだろうか。昔の日本では、向こう 三軒両隣りが神と言われていたが、人が偶像になってしまう。人に どう思われているか、人の目を恐れ、人の態度で一喜一憂し、がん じがらめになる。自由も喜びもなく、何を言われるかとびくびくす る事になる。「人を恐れるとわなにかかる」、人の目ばかりを気に すると、御心と反対方向へそれてしまう。 人を恐れると「ノー」が言えない。相手を傷つけたくなくて「ノー 」を言えないのは、実のところ相手でなく、自分が傷つきたくない からだ。又、相手を喜ばせようとして、「ノー」が言えない。人の 歓心を欲してだろうか。お喜ばせするべきは、主だ。御言葉を基準 にして、主に信頼するなら守られるとある。まず自分が人目を気に し、恐れる者である事に気づく時に、助けを求めて祈りに持って行 ける。 祈って行く時に、御霊は生活の中で具体的に示し、導いて下さる。 相手の嫌な言動に振り回されずに、御霊の導きに従い続ける時に、 自分自身は平安にされる。相手は変わるかも知れないし、変わらな いかも知れない。しかしそれを続ける中で、自らは主の平安の内を 歩める。そして少しづつ人の目から自由にし、解き放って行って下 さる。 ------------ 人を恐れているとしっかりと認めていたい。簡単に人の流れに飲み 込まれる。人の支えも必要だが、本当に神の恵みのみに頼っている か。逆にならないよう祈っていたい。