2020年11月02日(月) 「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから」創世記11:4
「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから」創世記11:4
有名なバベルの塔の箇所だ。最初、全地は一つ言葉だった。そのた め互いに意思疎通ができた。人々はシヌアルに平地を見つけ定住し た。彼らは、石の変わりにれんがを作り、粘土の変わりに瀝青を作 った。しかしそれらは神による技術であった。そして建造物を作る ことができたが、それも神の恵みであった。 対話もでき、皆で交流でき、肥沃な地に住み、すべてはうまく行っ ていた。しかし「そのうちに彼らは」「天に届く塔を建て、名をあ げよう」と言い出した。「神のようになろう」としたアダムと同じ だ。主の恵みに感謝し、へりくだって主に栄光を帰するのではなく、 自分の名をあげ、自分の栄光、名誉、賞賛、「自分」が神の位置に 取って変わった。 神に与えられた能力を、自分の栄光のために使い、「自分が、自分 の、自分を・・」これがアダムからの罪そのものだ。そして「生め よ。増えよ。地に満ちよ」との主の御心に反逆し、散らされないよ うにしようとする。「そのうちに」とある。最初は良かったのだが、 段々と向きが変わり、狂って来た。神が介入された。 言葉を混乱させ、意思疎通を不能にした。その結果、塔建築が不可 能になり、「彼らは建てるのを止めた」、建設は失敗した。神が阻 止された。そして人々は全地に散らされた。原因は人間の「高慢」 であった。 私たちもどうだろう。言葉が通じず、気持ちが通じない時、そこに 主を忘れ、「自分が、自分が」という「高慢」がないだろうか。ま ず主の前にへりくだり、肉の思いを退ける時、必ずそこには御霊の 一致がある。 --------- 共通の言葉はなくても主は御霊を与えてくださった。言葉も考え方 も違う人と互いに意思疎通し、一致しようとする時に謙遜にさせら れる。自分中心から主にあって一つになれる。