2021年11月02日(火)

「しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである」出エジプト8:19




エジプトで苦しむ民の叫びを聞き、主は指導者モーセを遣わし、民
の救出を計画された。主は次々と奇跡を起こされ、モーセが、その
つどパロに民を去らせるよう迫った。主の超自然の奇跡により、厳
しい苦痛が臨むと、パロは「私は罪を犯した」「私と私の民は悪者
だ」「私の罪を赦してくれ」「私のために祈ってくれ」と言う。

一見悔い改めのような言葉を発するが、その災いがおさまり、ひと
息つくや、即、再び強情な姿に戻る。これは、それらしき言葉を口
にするが、口先だけで、心では思ってはいない。真の悔い改めなら、
行動が変わり、必ず実を結ぶ。主は「わたしが主であることを、あ
なたがたが知るため」にしるしを行なわれる。しかし頑ななパロに
とっては、様々なしるしが、主を知る事にはならず、脅しみたいな
ものであった。

だからその脅しが無くなれば、再び強情で頑なになった。私たちは
どうだろう。もし高慢になっていたなら、主はへりくだるようにと、
苦しみを送られる。これは主の愛であり、放っておかれる方が悲惨
だ。しかし、その苦しみをパロのごとく単に脅しと取るなら、余り
の苦痛に悔い改め、神妙になるのだが、その苦しみが去ると、元に
戻る。何も変わらない。

実は自分が悪いとは思っていない。痛みが不都合なだけだ。叉、見
栄えが悪いだけだ。真の悔い改めに至らず、実を結ぶ事がない。
しかし御霊に導かれた悔い改めは必ず結実する。砕かれた、悔いた
心を祝福し、御霊は豊かな実を結ばせて下さる。
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良い事なら何でもしてもらいたい、そして願いが叶えば嬉しいとい
うだけなら、砕かれる事もなく、いずれ神でなくてもよくなってし
まう。砕かれ赦されて歩もう。神を喜びとして歩もう。