2024年05月03日(金)

「かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はも うそのような知り方はしません」Uコリント5:16


信仰生活を送る中で、何だか心が辛くなり、苦しくなる時は、「人
間的な標準」で、自分や状況、周囲の人々を見ているだろうか。パ
ウロは、以前は、主キリストを人間的な標準で見ていたと証しして
いる。王の王、主の主である人類の救い主が、華麗で豪華な王宮で
なく、宿屋の部屋もなく、家畜小屋で生まれる事に、まずつまづく
かも知れない。

貧しい大工であるヨセフの息子で、財産も無く、地位も名誉も何も
無い、何の見栄えもない。最期は最も惨めで、悲惨、残虐、辱め
の、極悪人がかかる十字架上での死で、とても受け入れられない。
しかしその「人間的な標準」のメガネをはずした時に、主を知って
いることの素晴らしさのゆえに、いっさいの事を損と思うようにな
り、すべてのものを捨てて、ちりあくたと思うようになった。

「人間的な標準」でなく「キリストの標準」で、人を、状況を見て
行く時、どんな人にも、どんな状況にも、主の恵みが見えて行く。
主の光の内に、光を見て行く。主の内に自分を見る。自分で、自分
を見るなら受け入れられないが、主に受け入れられ、愛されている
自分を見て、その自分を受け入れて行く。

だれでもキリストの内にあるなら、新しく造られた者だ。古いもの
は過ぎ去った。今、問題があるなら「人間的な標準」で、この世の
価値観で、肉のメガネで、目の前のものを見ていないだろうか。
主の視点のメガネにかけ変えよう。同じ事が、全く違って見えて来
る。様々な負の事態が起きるが、すべてが祝福に結果して行く。
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日々、環境の影響を様々にうける者だが、主の力によって生かされ
ている。この立場に立ち信仰の目で判断していきたい。光なる主の
元には希望だけがある。