2007年05月03日(木)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:22



主が、この弟子達にされた事は、
御言葉を説き明かし、御言葉に
よってご自身を現わされる事だ
った。十字架の意味とは、よみ
がえりとは、御言葉から明らか
にして下さった事だろう。
「ふたりは暗い顔つき」とある
が、主が亡くなり、なすすべな
く、重い足どりで郷里への途上
だ。失望、落胆、絶望だったろ
う。「暗い」心に、主の語られ
る御言葉が入った時に、ポッと
火が点じられ、段々とその火は
大きくなり、赤々と燃えて行っ
たのだ。彼らも、他の弟子達も、
自分の思いの中にいた。主は、
この地上に王国を打ち建てられ、
地上を支配する王となられる。
その主に従っていた。強烈な自
らの思い込みがあった。それが
根底から粉々に打ち砕かれたの
だ。私達も同様だ。自分の肉の
思い込みがある。商売繁盛、無
病息災、繁栄が祝福であり、損
失、災いは悪であり、祝福され
ていないとの思いだ。私達にも
必要なのが、御言葉に立った信
仰だ。自分の思いでなく御言葉
だ。失望でどんより暗い弟子達
の心が、御言葉で明るくされて
行った。的はずれだったのが、
焦点が合って来た。私達も主が
語られる御言葉によって、目が
開かれる。焦点が合い心に潤い
と喜びが来る。心が生きて来る。
自分の思いの暗さの中にいない
か。御言葉に耳を傾けよう。新
たにされる。
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思い通りに行かなくても、全能
の力のある方を知っている、こ
れが力であり守りだ。御言葉を
通し信仰の目で見ていくなら、
すべては、神様の主権によって
与えられるものだとわかる。
肉の思いから目を神様に転じよ
う。