2007年08月03日(金)

「年長者から始めて、一人一人出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」ヨハネ8:9



姦淫の女が、パリサイ人達によって、
主の前に連れて来られた。主を追い
詰めるためであった。姦淫の女を赦
すなら、律法に違反する事になる。
しかし、律法に従うなら死刑だ、な
らば主が説いている愛はどうなる。
主はその問いには答えられず、「罪
のない者が石を投げよ」と言われた。
すると、年長者から去り、結局、皆
去って主と女だけが残った。つまり、
彼らも良心に触れられ、自分の罪が
わかったわけだ。しかし、罪を認め
たくないので、主のもとから逃げ去
った。その女だけは逃げる事をせず、
そのままそこにとどまっていた。も
う皆からさんざん何もかもを暴き立
てられ、ボロボロ状態だ。隠すこと
も出来ないよりも、隠すものすらな
い状態だ。もう裸だ。そんな彼女は、
砕かれてきっていた。砕かれた心で、
主を信じ、受け入れた。すると「わ
たしもあなたを罪に定めない」との
主の赦しを受け取った。姦淫の女は
罪が完全に赦され、「わたしに従う
者は、決してやみの中を歩むことが
なく」これから光の中を歩んで行く
者とされた。正しいパリサイ人達は
罪を認めず、やみの中を歩み続け、
罪深い姦淫の女が罪赦され、光の中
を歩んで行く。まさに対照的だ。罪
が照らされる時、痛いが逃げずに認
めよう。光の中を歩み続ける者とさ
れる。
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罪を認めることは歳を重ねるごとに
難しくなるが、罪の赦しを知ってい
る私達は罪を認めて、認めて歩む事
が感謝だ。高慢から守られ光の中を
歩んで行ける。