2008年02月01日(金) 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラテヤ6:7
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラテヤ6:7
思い違いをしてはいけない。神は罪を 完璧に赦して下さるが、蒔いたものを 刈り取らないという事ではない。罪の 赦しと罪の結果を刈り取る事は別だ。 罪が赦される事は刈り取りからの放免 という事ではない。罪は完全に赦され る。一切とがめられる事はない。キリ ストが代わりに負って下さったのだか ら。罪のとがめから解放されて、罪責 感も無くなるとは何と感謝な事だろう。 神は罪を忘れ、もう二度と思い出さな いと。しかし、それとは別に、自分が した事の結果は厳然と残る。その結果 を負って行くことが、責任を取るとい う事だ。厳粛な事だ。だから、どうせ 赦されるのだからと、安易に罪を犯し てはならない。自分が蒔いたものは、 必ず自分が刈り取るのだから。ダビデ は自らの罪を認め、告白した時に「主 もまた、あなたの罪を見過ごして下さ った」と、即、罪は完全に赦された。 しかし、刈り取りがあった。生まれた 子供は死に、実子が謀反を起こし、子 供の事で次々と苦しんだ。だが、ダビ デは罪のさばきと受け取らなかった。 厳しい訓練を通して、信仰も品性も愛 も更に練られ、きよめられて行き、神 の愛をますます知って行った。ヘブル 書に信仰の人として名を連ね、詩篇を 通して、私達も、ダビデの神への深い 信仰と愛に触れる。主は何と憐れみ深 い。 ・・・・・・・・・ 何と神のあわれみだろう。刈り取りは 決して甘くはないが、罪を全く赦され ているからこそ、刈り取って行ける。 刈り取りを通して厳しい神の愛を知る。 神のあわれみはどこまでも尽きる事が ない。