2009年07月03日(金)

「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただその自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」ガラテヤ5:13



自由とは、何でも好き勝手をする事ではない。放縦やわがまま、したい放題と勘違いしてはいけない。魚は水の中で初めて自由であり、私達は陸で自由なように、自由とは無秩序でなく、秩序がある。

魚は水の中が不自由と感じない。秩序の中で初めて自由がある。楽器を演奏する時、譜面に拘束されないだろうか。それを不自由と言うだろうか。それにより美しい演奏を楽しめる。

スポーツもルールに縛られてプレイするが、力一杯、持てる力を発揮し競技できる。
ルールが無ければ混乱状態だ。自由とは無秩序でなく放縦でない。

しかし、しばしば勘違いする。すべての束縛から解放される事が自由だと。そうでなく、拘束を受け入れて、沿ってゆくところに真の自由がある。

つまり、私たちは主の導きを受け入れ、従うところに、本当の自由がある。その主は極みまで愛して下さり、すべての面で配慮し、最善以下の事はされないお方だ。

主の動機は愛だ。今、くびきを負う事を嫌がっている事態があるだろうか。逃れる事が、解放と勘違いする。御心から逃げると、一瞬の解放感がある。

しかし、すぐに解放どころか、心に平安を失い惨めな状態になる。
実際は、くびきを受け入れてしっかり負う事が解放の道だ。
心に何にも替えられない、喜びと平安が来る。
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主が十字架にかかってまで得させて下さった自由を、私達は無駄にしてはいけない。御心に従える自由、人を愛せる自由、どんな時にも喜べる自由だ。与えられた自由で御霊の実を結んでいこう。