2009年11月01日(日)

「その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、『この人はヨセフの子ではないか。』と彼らは言った」ルカ4:22

主は故郷のナザレに行かれた。安息日に会堂に入り、イザヤ61章の言葉を読まれ
た。捕らわれ人は赦免を、盲人は目を開かれ、虐げられている人は自由に・・素
晴らしいみわざ。

「今日、このみことばが実現した」と言われた。何千年も前からの預言が、今日
実現し、メシアがここにいると。聞いた人々は恵みの言葉に感動し主を誉め讃え
た。

しかし、同時に「ヨセフの子ではないか」と言い放った言葉に、人々の信仰の心
は冷めて閉ざされて行った。主は、預言者は誰でも自分の郷里では歓迎されない
と、その不信仰を嘆かれた。

このナザレの人々から学ぶ事ができる。御言葉を聞く心の態度だ。自分にフィッ
トする、心地よくさせてくれる、耳ざわりのよい御言葉を聞くと、主は素晴らし
いと喜び、主を誉め讃える。

しかし、間違いを正されたり、罪を、現実を、指摘される、自我に触れる御言葉
は苦痛で拒否してしまう。心を固くして聞かない。余りにも痛いので、無意識に
自己防衛してしまう。

しかし、ここが根幹をなす所であり、かなめだ。ここのところで逃げてしまうと、
成長のしようがなく、変えられることがない。痛い言葉は心がうずき、気づかず
に逃げているかも知れない。気づいていない心の底を御霊に探って頂こう。成長
のためにどうしても必要だ。

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古い性質は、自分に痛い言葉を聞きたくない。逃げたい。しかし、自分が変えら
れる事も成長も無いのは悲惨だ。人や環境のせいにして、一生このままだ。聞き
たく無い言葉が、自我に触れている言葉だ。そこを御霊に助けて頂こう。