2010年12月02日(木)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」マタイ5:3


私たちは、自分は貧しい事は貧しいが、それほど貧しくないと思いたい。「貧しい」という言葉が、余り良い響きでなく、心にひっかかり、認めたくないのかも知れない。しかし、内側をよく探るとどうだろう。突き詰めるなら、心底、他人に同情するなど出来るのだろうか。

他人より自分の事で一杯だ。人の喜びを、喜ぶ事ができない。入試に一方が合格したらどうだろう。妬みが生じてしまう。幸せな人を見ると、本当に喜べるのだろうか。羨ましくて仕方がない。引きかえ自分はと、自己憐憫に陥る。

他人の事に真に関われない冷淡さが、心にある。普段、考える事なく、突き詰めないだけで、漠然と、あいまいに通過している。自分は良い人であり、愛が無いなどと認めたくない。そんなに酷い人間ではないと思いたい。だから、あえて見ずに避けて逃げている。

無意識にそうしているので、気づく事も無い。しかし、霊の成長は、必ず現状を「認める」事から始まる。冷淡で、愛が無い、嫉妬深い、プライドの高い自分。痛いが、破れ果てた真の自分の姿を認める時に初めて、変えられて行く。

自分がいかに貧しく惨めかを知る時に、真に十字架を経験して行く。その度に新たに主に出会い、「幸い」=「羨ましいほど幸せで祝福」である事がわかる。無い所に、神は溢れるまでに注ぎ、満たして下さる。貧しいと知る事が最大の祝福だ。
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無いと認めれば溢れるまでに満たされる、神様が恵んで下さる方法はなんとシンプルで真実なのだろう。自分の内にあると思っているものを手放し、貧しい者であると御前にいつも認めている事がどれほど平安で心強いかを味わい知りたい。