2011年03月02日(水)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ」Uコリント7:10


モーセが、民をエジプトから出すために、パロと掛け合った。神の様々な超自然のみわざにより、苦痛が臨むと、パロは「私は罪を犯した、悪かった、私のために祈ってくれ」という悔い改めのような言葉を発する。が、その災いが鎮静化するや、すぐに再び頑固な姿に戻る。その繰り返しを見る。

これは、それらしき言葉を口では言うが、心の底では思ってはいないという事だ。悔い改めていない。真の悔い改めなら、必ず実を結ぶはずだ。神は「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」にしるしを行なわれる。しかし、パロにとっては、様々なしるしが、決して主を知ることにはならず、脅しみたいなもの
であった。だからその脅しが退けば、再び強情で頑なになった。

私たちはどうだろう。もし高慢になっていたなら、神はへりくだるように苦しみを送られる。これは神の愛であり、放っておかれる方が悲惨だ。しかし、その苦しみをパロのごとく単に脅しに取るなら、確かに悔い改め、反省し、自らを正すのだが、その苦しみが失せると、元に戻る。本当は自分が悪いとは思っていない。

成長が無く古い自分のままで、何も変わらない。真の悔い改めに至らないので、実を結ぶ事がない。しかし、御霊に導かれた真の悔い改めは必ず実を結んで行く。悔いくずおれた魂に、御霊は豊かな実を結ばせて下さる。御霊は罪を示し、悔い改めに導いて下さる。その御霊に従おう。その時、主のご愛を知る。
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罪を示されたなら弱さや欠けを認め、謝りそこから向きを変えて生きなければならない。内側から新しく神様が変えてくださる。痛い状況だけ見て何度も謝り続けるより希望を持って今変わろう。