2011年04月01日(金)

「・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現されることを求める私の切なる願いと望みに・・」ピリピ1:20



ヘロデ王は教会を迫害し、ヤコブを殺害したところ、それがユダヤ人に非常に気に入られたのを見て、次にはペテロに手を伸ばした。ペテロを捕らえ、投獄処刑しようとした。しかし、ペテロは、主が使わされた御使いによって、牢から救い出された。「教会は、彼のために、神に熱心に祈り続けていた」の通り、教会で
はヤコブの時も、ペテロの時も同じように熱心に祈った。

そして、ヤコブは処刑され、ペテロは救い出された。なぜ?と思う。これは、ヤコブとペテロそれぞれに対する、神のご計画であり、召しだ。ヤコブは殉教によって、神の栄光を現わし、ペテロは更に福音宣教の任務が備えられており、それによって神の栄光を現わす事となる。ヘブル11章にも「ししの口をふさぎ、火の
勢いを消し、剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」ある人々は、奇跡に次ぐ奇跡によりどんどん進軍して行った。

そして同時にある人々は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏しくなり、苦しめられ」と、殉教して行った。結果的には、全く違うどちらもが「信仰によって」歩んだ。パウロは「わたしにとって生きることはキリスト」と言った。一人一人に備えられた神のご計画が全く違う。隣の人と
自分は違う。自分に与えられた人生、御心を全うする事が、一番の喜びの道だ。
---------------
いつでも、どんな場合でも主の栄光のために自分が用いられたらなんと幸いだろう。パウロのように自分を通して主の素晴らしさが現れる道を、フルに生かしきって歩みたい。